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第7官界彷徨

第7官界彷徨

清少納言の日記

 以前、古今和歌集の先生に「日本文学と気象」という本を教わりました。昭和53年に作られた本ですでに絶版。仕方なく捜したのですが、ヤフーのオークションに出ているのを発見、購入しました。
 この本は高橋和夫さんという国文学者の方が書かれたもので、思い入れたっぷりのなかなか面白い本です。

 先生は
「季節と恋は日本古典文学の要である。ほかのどんなテーマを捨てようとも、この2つを話題にしない古典文学はほとんどないと言ってよい。その恋も、いつも季節の風物に彩られた恋であった。」
 と、断言なさっています。

 季節ごとにまず並べられた古今和歌と気候についての論説は素晴らしいものですが、まずは枕草子。

 「清少納言が、世の衰えに目をそむけたのは宮廷の生活だけではなかった。季節を見る目もそうだった。」
 として、季節の分かるものを月別に並べてあります。
 正月 4  二月 7  三月 1  四月 1  五月 10   六月 2
 七月 3  八月 2  九月 4  十月 1  十一月 0  十二月 2

 清少納言は五月が飛び抜けて好きで、晩秋嫌いだったらしいとのこと。

「清少納言が一番好きだったのは五月だった。旧暦の五月、ほぼ新暦の六月は中旬から一ヶ月余り、梅雨に入る。雨量の増加とともに、10%近く湿度も増す。すると全てが伝わり易くなり、人の感情も流れやすくなるのであろう。」

「水辺のしっとりとしたさまが好きな彼女は、池ある庭を称揚する。
*池ある所の五月長雨の頃こそいとあはれなれ。菖蒲、菰など生ひこりて(密集して)、水もみどりなるに、庭もひとつ色に見えわたりて、曇りたる空をつくづくとながめくらしたるは、いみじうこそあはれなれ。いつも、すべて、池ある所はあはれにをかし。」

 「菖蒲を櫛にさしてたり、長い根を衣服に結いつけてお互いに比べ合ったり、また、青い紙に菖蒲の葉、白い紙に菖蒲の根を結い付ける。これは同系色の色の調和である。」 

☆長雨の季節も、それが好きな清少納言の書き残したいろいろのことを思うと楽しくなりますね。
 
2009年9月9日
 毎週土曜日の午後5時からと日曜日の午前6時に、NHKラジオで「枕草子」を放送しています。時間が微妙でなかなか聴けないのですが、先週は知っている人が出て来ました。

第115段
 「あはれなるもの」
 手厚く親の喪に服している人の子。
 身分の良い若い男が御嶽精進しているところ。

 などと書き始めていますが、清少納言が見聞きしたエピソードが続きます。

 金峰山の御嶽参りは、どんな身分の高い人でもこの上なく粗末な服装でお参りするのが習いなのに、右衛門の佐(うえもんのすけ)宣孝という人は、「それはつまらないことだ。物がなんであろうと清浄な着物を着て参詣すれば良いはずだ。まさか御嶽の蔵王権現は、粗末な身なりで参詣せよとおおせではあるまい」と言って、
 3月の末に、紫のとても濃い指貫に,白い狩衣、山吹色の大袈裟に派手な内着などを着て、主殿寮の次官の息子には青い狩衣,紅の内着、それに乱れ模様を染めたはかまというものを着せて、そんな格好で連れ立っておまいりしたのを見て、参詣の人たちは見慣れぬ風体だと目を見張り、一体全体この金峰山詣でにこんな恰好の人があった試しはないと驚きあきれたことだった。

 しかし,彼らは4月の朔日に京に帰って来て、それのみか、6月10日の頃に時の筑前守が辞任したその代わりにその席が転がり込んできたのは、成る程、その言葉の通りだったことよと,当時評判になったことだった。
 これは、この文の主題とする「あはれなること」ではないけれど、御嶽の話が出たついでに書き留める。

☆先例を重んじ神仏の加護を受けることが重要な平安時代にあって、さばけたというか何と言うか、派手好みの太っ腹のような宣孝は、誰かと言えばそののち山城の守に出世して、紫式部の夫となった人です。
 すでにこの時大きな息子がいて、紫式部は何人目かの妻だったんですね。
 年齢差はあっても紫式部の結婚生活はけっこう楽しいものだったような気がします。

2009年9月26日
 130段
「亡くなった道隆さま(中宮定子の父)の半年後の追善供養が行われた。仏事が終わって酒宴になった時に、斉信の君が「月は秋になれば必ず清い光りを放つが、その月を愛でた人はもう帰らない」という詩を吟詠なさったので、感激して人びとをかきわけて定子さまのところへ参上すると、宮は「素晴らしい,今日のご法事のために心がけていたのでしょう」とおっしゃるので「そのことを申し上げようと思って早々に参上したのです」と申し上げると、宮は「お前のごひいきだから、感激も人一倍でしょう」とおっしゃる。」

 そのころ流行り病で亡くなる人が多かったそうですが,道隆は「水ばかり飲みたがって痩せて亡くなった」と、栄華物語にあって、糖尿病だそうです。
 斉信は、道隆のいとこで、一条天皇の時代を支えた四納言の1人。文化人で清少納言と気が合い、そののち紫式部日記にも登場するそうです。

「斉信が清少納言を呼び出して、会うとその度ごとに「どうして私ともっと深くつきあってくださらぬのだ。さすがに私を嫌っておいででないのは分かっているが」
 とおっしゃるので、「あなたさまの妻になると、帝や人びとのお前などでもあなたさまのことをほめにくくなってしまいます。」と言うと,斉信は「そんなことはないよ。そうした親しい女が赤の他人以上に思う男のことをほめるという例も世間にはあるではないか」な~んておっしゃる。」

 斉信はこののち道長の引きを得て出世します。

131段
 行成さまがおいでになって雑談をしているうちに夜が更けてしまいました。「明日は物忌みなので詰めなくてはならないので丑の刻になったら具合が悪いので」とお帰りになった。
 翌朝、勤め先の用紙をつかって「夜を明かそうと思いましたのに、鶏の声にせきたてられてしまいました」という手紙がきました。その筆の見事なこと!
 お返事に
「朝早くに鳴いたというのは、あの孟嘗君のニセの鶏のこと?」と書いてやりました。
 するとお返事がきて
「孟嘗君の鶏は函谷関だけど、私の言うのは逢坂の関のことです」というので

*夜をこめて鶏の空音ははかるとも世に逢坂の関は許さじ  
    しっかりした関守がいますから。と申し上げるとすぐに
*逢坂は人越えやすき関なれば鶏鳴かぬにも開けて待つとか
   とお返事がありました。

 このお手紙を、初めのは定子さまの弟の僧都の君が大変なご懇望で、3拝9拝という騒動でご自分のものにされました。あとの二通は定子さまが手元に置かれました。」

 行成は、書道の三碩の一人で、彼の書は当時から珍重されたのだそうです。勤め先の用紙に書いたそうですが、今残っていたら国宝ですね。
 
「その後、行成様がおいでになって、「私の逢坂の関」の歌には、さすがのあなたも気圧されて返事ができなかったようですね。それにしても、あなたの手紙は殿上人がみんな見てしまったよ。」と言われるので清少納言は
「本当に私に好意を持って下さっているのがよくわかりました。素敵な歌など、人の評判にならないのは甲斐もないことですもの。私の方は、あなたのみっともない手紙など、人目に触れるのもつらいものですから、ひた隠しにしてちらりとも見せません。」
 などとへらず口をたたきます。
 そののち、経房の中将がおいでになって、「行成さまはあなたのことをひどく褒めておられることを知っていますか。(私が)好意を持っている人が、人にほめられるのはひどく嬉しいことだ」
 と真面目に言われるので、
 「嬉しいことが2つになりました。行成さまがお褒めになっていらっしゃることと、私があなたさまの思う人の中に入っていましたなんて」と清少納言は答えました。」

 経房は笙の笛の第一人者。
 定子中宮のサロンの賑やかさが伝わってくるようです。行成は清少納言の機智に富んだ手紙を殿上人たちに見せ、そして清少納言の評判を高めてくれたのですね。それはとりもなおさず定子中宮の評判にもつながるわけです。
 徒然草の238段に、ある額の作者を見る時に、兼好が行成の筆なら裏書きがあるはず、と言って,調べてみたら確かに裏書きがあったと、書いてあるそうです。
 道長の姫の彰子に仕えた紫式部に比べ、清少納言は零落して行方知れず、とよく言われますが、歴史の表面に出て来ないだけで、その才覚で殿上人のだれかに愛されて幸せな楽しい一生を終えた、、、ような気がします。 


2009年10月25日
 毎週、NHKラジオ第2放送って言う?で、「耳で聞く枕草子」を聞いています。決まって聞こうとしているので、一週間の経つのの早いこと早い事。3日位の気分で次の回がきてしまいます。土曜日の午後5時、日曜日の午前6時という微妙な時間帯なので、心して聞かないと忘れてしまいます。

 今回は147段
「人がそばにいると頭にのるお調子もん!」
 なんということのないつまらぬ身分の人の子が、甘やかされつけているの。
 咳!立派な人の前で緊張してなにか言おうとすると、まず先に出てしまう。
 近所の同僚の子どもが親より先に遊びに来て、ものを散らかしたり壊したりするので、やめさせようと着物の袖を引っ張ったりしていると、親が来るともっと頭にのって「あれが見たい」などと母親にとりついて揺さぶるし、大人はおしゃべりに夢中で聞かないので、子どもは自分で引き捜して散らかすのはほんとに憎らしい。
 親も親で止めようともしないで笑っているので、親も憎らしい。私は親がいるのでうるさいがきんちょを怒れないので、気が気ではありません。

149段
「みてもどうってことがないけど、漢字に書くと大げさなもの」
 覆盆子(いちご)。鴨頭草(つゆくさ)。蜘蛛。文章博士。得業生(大学寮の、もっと修行した人)。皇太后宮権大夫(名前がおおげさ)。楊梅。虎杖いたどりは、虎にとっては杖など要りそうもないのに。

☆いろいろなものの中に「楊梅」(やまもも)などが出てくる飛んでる発想がすごいです!

150段
「不気味なもの」
 刺繍の裏。ネズミの子のまだ毛も生えていないのが巣の中から転がり出る。裏がついていない毛皮の縫い目。
 猫の耳の中。
 不潔な場所の暗い所。
 大した身分でもない人に子どもが沢山いること。特別に愛情が深い訳でもない妻が病気になったのを看病する夫の気持ち。

☆なんで「猫の耳の中」なんか覗くの?って聞いてみたい。

153段
「うらやましいもの」
 経を習おうとしてもなかなか覚えられなくて何度読んでも忘れてしまうのに、くるくると上手に読める人たち。あの人たちのようにいつになったら読めるのだろう。
 気分が悪くて横になっていると、廊下を元気な人たちが笑っておしゃべりしながら歩いて行くのを聞くと,寝ている身にとってはひどくうらやましい。
 一念発起して伏見稲荷にお参りをして、中の御社でふうふう言っていると、後からきた人たちが先に行ってしまうのがうらやましい。
 私は2月の午の日に暁から上り始めたのに、途中で10時になってしまい、暑くなってきたので、泣きながら休んでいると、私より年上の、格別な装束でもない女が「私は7度詣でをするつもりです。もう3回は詣でたので、あと4回は軽~いわ。」と、出会った人に語って下って行きました。普段は特別目にも留めない人だけど、すぐにでも変わってほしいと思うくらいうらやましかった。

 良い子どもをもった人もうらやましい。
 髪の毛が長く下がり方などがきれいな人もうらやましい。
 高貴な人がいろいろな人にかしずかれているのを見るのもすごくうらやましい。
 字が上手で歌も上手で何かの折りにいつも真っ先に選ばれる人もうらやましい。
(以下略)

☆人をうらやましがることは悪い事のように思っていましたが、こう書き出されるとけっこう可愛いものですね。
 

2009年11月1日
 敬愛する定子さまにお仕えして2年目、定子さまの父道隆さまが亡くなります。不幸が相次ぎ思わぬ道長の登場で風雲急を告げる政権交代の中で、それを気がつかないように自分のモテぶりを語る清少納言です。

第156段
「故殿の御服のころ、6月のつごもりの日、、、、、」
 
 4月に道隆さまが亡くなって、定子さまは1年の喪に服しておいでです。6月のみそかに大祓が行われるため、定子さまは宮中を退出なさることになりました。
 方角が悪いので方違えということで、南の太政官の朝所という場所にひとまずお移りになりました。その日は暑くて月のない夜だったので、分けもわからずまんじりともしないで夜を明かしました。

 翌朝、あたりを見回すと建物は平たく瓦葺きで唐風であり、普通の建物のように格子などもなく、まわりに御簾を架け渡してあるだけで、それが面白くて私たち女房は庭に下りたりして遊びました。
 回りに甘草という草を垣根のようにして植えてあって、くっきりとした色合いでたくさん咲いているのが、こうした儀式ばったお役所の植え込みとしてはめずらしく思えます。
 
 時を知らせる「時司」がすぐそばで、その鼓の音も普段と違う聞こえ方なので、若い女房たちが20人ほど、そこに出かけて行って、階段を上ったのを下から見上げると、誰もが喪中なのでうすねずみ色の衣装に紅の袴をつけてお揃いの姿なので、天女のようだとはまさか言えないけれど、天から下りて来たように見えます。
 上るのを下から手伝った人は自分が最後なので登れないでいて、うらやましそうに見上げているのも、また面白いのでした。

(喪中でうつうつとしていた女房たちは、変わった場所で開放感にあふれてしまい、もう、女房たちの無法地帯化してしまったみたい)
 佐衛門の陣まで気晴らしに出かけて行って、転んだり倒れたりした女房達もいたようで、「どうしてこんなに騒ぐのだ。上達部(公家)の座る椅子に女房達が座り、机状の椅子を皆打ち倒して壊したりしている」と、くそまじめな事を宿直の官吏が言うが誰も言う事を聞きません。

 大変古い家で瓦葺きなので暑いので、みんな外に出て寝ています。むかでや蜂の大きな巣があったりして怖いことです。
 殿上人(男性貴族)たちが毎日仕事帰りにやってきて、夜もそのまま居続けて女房たちとおしゃべりばかりしているのを聞いて,誰かが「ああ、どうしたことだろう、太政官の庭が今やこんな場所になってしまったとは」と謳い始めたのもおかしくってたまらない、、、。

 秋になりましたが、古今和歌集のみつねさまの歌の
*夏と秋とゆきかふ空の通ひ路はかたへ涼しき風や吹くらむ
 というみたいな、半分も風は涼しくはなりません。けれども、さすがに虫の声は聞こえ、七夕祭りもここでしましたが、狭いのでいつもより近くに見えるのはまた良いものです。

 ただのぶ様、のぶかた様、みちかた様がいらして女房たちとおしゃべりをしている時に,私が急に
「明日はどんな詩をお吟じになるの?」というと、ただのぶ様が、少しも間を置かず
「それは、人間の4月の詩を」とお答えになったので、すっかり嬉しくなった私です。
 とうに過ぎ去ったことでもよく覚えていて返事をするのは、それが誰だって素敵だけれども、女だったら覚えている人が多いけれども、男はとんとそうでもなく、自分の送った歌でさえ忘れている人がいるのだから、これはほんとに素敵なことだ。
 その場に居合わせた女房も、他の2人の殿方も気がつかないけど、これは私とただのぶ様だけに分かる話なのだ。

 というのは、この4月の朔日の頃、いつものように細殿のあたりで殿上人がたくさん集まって女房たちとおしゃべりをしていたとき、皆それぞれが引き上げて行った後,最後まで残ったただのぶ様たちが「露は織り姫の別れの涙か」と上手に吟じておいでだったのを、私が「たいそう気の早い七夕ですこと」と季節外れを馬鹿にしたところ、ただのぶ様は
「ただ暁の別れの一節のつもりでしたのに、あなたのいるところでこのようなことは言うべきではなかった。口惜しい!」と繰り返し言って笑い
「この事は他の人には口外しないように」と口止めされた、という事があったのです。

 七夕の時にまたこのお話で盛り上がろうと思っていたのだけれど、ただのぶ様は出世なさって毎日お会いできなくなってしまい、仕方なければ、手紙を書いて持たせようと思っていっところ、丁度、七夕の日にお顔をお見せになったので、
「しめしめ」と思って言ってみたら,全然迷わずにお答えになったのは、お見事でした。
 あの時からずっと、早くこの時が来ないかと思っていたのに、どうしてあの時とおなじように、まるでただのぶ様も待っていたようにおっしゃるのは、ほんとに感動ものです。
 一緒にいたのぶかた様は全然気もつかないのに。

 私とただのぶ様が碁の言葉を使って「置き石を許している」とか「もう石を崩すところまで来た」とか話しているのを聞いて、のぶかた様が「早く自分とも碁の言葉で会話をしてほしい。分け隔てはしないでください」などと言うのですが、気の利いた話の分かる人とだけしかおつきあいしたくない私です!

☆という、長い段のまだ途中で、これは枕草子の中核を為す部分なんだそうです。
 道長の世になったばかりの頃で、まだ宮中のサロンは定子さまのものだった良い時代ですね。清少納言は8年の宮仕えの2年目くらい、これから定子さまの不幸が始まるところです。
 清少納言とラブラブだったただのぶは、そののち道長に重用され、彰子サロンの重要人物になるそうです。


2009年11月7日
第154段
「とくゆかしきもの」(結果を早く知りたいもの)
 いろんな染め物をしたとき。人が子を産んだ時は、男の子か女の子か早く聞きたい。身分の高い人はもちろんだけど、つまらぬ身分のものでもやはり知りたい。
 任地の決定を発表する日の翌朝。

第155段
「心もとなきもの」(じれったいもの)
 人のところに急ぎの縫い物をたのんで出来上がりを待つ間。
 行列見物にでかけて今か今かと車の中に座り込んでそちらの方をじっと見守っている時の気持ち。
 子を産む人がなかなかお産の気配のないもの。
 遠くの国の好きな人から手紙が来て、固く封をしたのをあける間。
 行列見物に出かけて、もうすぐ行列が来るというのに、車がなかなか寄せられないとき。
 
 ちょっと老眼が来たのかしら、急ぎの着物を縫うのに針に糸が通せないとき。
 その他いろいろ

第157段
 藤原公季さまの娘義子さまが女御となっていらっしゃるところに、「うちふしのみこ」といわれる占い師の娘が左京という名前でお仕えしていたのを、「源中将(のぶかた)がねんごろになっている」と人々が馬鹿にして笑うのです。
 のぶかたさまが中宮さまの所に来て、
「時々は宿直したいのですが、せめて宿直の部屋でもいただけましたら、精進いたしますものを」と言うので、私が
「ほんとに、誰だってうち臥して休む所があるのはいいものね。そういう所にはしげしげとおいでになるそうですのに」と言うと、
のぶかた様は怒って
「もう絶対にあなたとは口をきかない。味方と思っていたのに、人の噂を本気にするなんて」とひどく真剣。
 私は
 「おかしなことをおっしゃいますね。そんなお耳にさわるようなことは言ってません!」
 
 と弁解して、そばにいる女房を揺すって合図すると
「本当に何も申し上げませんでしたのに、カッカとおなりになる訳でもあありなのでしょうか」と、派手な笑い声を立てるので、のぶかた様は
「いや、これもあの人が言わせているんでしょう」
 と、不愉快そうです。私は
「そんな事は申しません。ほかの方があなたの悪口を言うのだって憎らしいと思うほどですから」
 と言って引っ込んでしまいました。それから後も
「殿上人が自分と左京のことを笑うので、あなたも言うのだろう」
 などと言うので
「それなら私一人をお恨みになる筋合いではないでしょ!」と譲らなかったところ、その後は左京との仲は絶えてしまわれました。

☆のぶかたとラブラブになった左京が位の低いものの娘だったため、清少納言をはじめ女房たちは、ちょっと焼きもちをやいて、意地悪をしたみたいです。
 ラジオの井伊先生は、最後は
「その後は、のぶかたは清少納言のところに来なくなってしまった」。と解釈なさいましたが、石田譲二先生は「左京とのぶかたの仲は絶えた」との解釈なので、その方が清少納言としては面白いかな?と思ってそう解釈することににしました。

2009年11月21日
175段
 (素晴らしい物語的世界の展開か、または滑稽諶)
 有る女房の所に、身分はそう高くはないが、風流人として有名なかっこいい男が通っていたそうです。
 長月の、有明の、霧の深い中を、素晴らしい言葉を交わしながら男は帰って行きました。見送る女房の姿も絵のようで、あんまり名残り惜しいので、一度帰った男は引き返して来て、声をかけようと物陰に隠れていたところ、女は
*長月の有明の月のありつつも 君し来まさねばわれ恋ひめやも
(今まで通りあなたが通って来てくださるなら、わたしは恋にせめられなくてすみますのに)
 とつぶやいて、外をのぞく髪の「頭にも寄り来ず」月の光りに照らされているのが驚くほど(美しい)ので、男は声もかけられないで、そのまま帰ってきたそうな。

 という、特に面白みもない、素敵なお話なのですが、これが、髪の毛が5寸ほど「頭にも寄り来ず」で、カツラがずれたので、男はびっくりして声もかけられなかった、と読む人もいるそうです。
 1/額に前髪が5寸ほど下がって
 2/髪が頭に寄って来ない
 美意識いのちの清少納言は、どう書いたのか?私は、カツラがずれたとは読みたくないです。
 
 176段
 雪のいと高うはあらで、、、
 雪が積もらずにうっすらと積るのは趣が深いものです。
 また、雪が高く積もった夕方、気の会った友達と火桶を囲んでおしゃべりしていると、火も灯していないのに雪が白くて、火箸で灰を掻いたりしているのも、素敵!
 みんなで盛り上がっていると、宵も過ぎた頃に、沓の音がして、一体誰かと思っていると、「今日の雪をどう思っているのか知りたかったが、つまらない用事でなかなか来れなくて」と、風流を好む男性が来たので,皆大喜びで円座ぶとんを勧めます。
 女房達だけでは、明け方までおしゃべりは続かないけど、眠気も寒さも感じないほど話に夢中になったのでした。

 177段
 村上天皇の頃に、雪がたくさん降ったので皿に雪を盛り、それに梅の花をさして、月の明るい晩なので、天皇が「これで歌を詠むように」とその場に居た兵衛の蔵人という、装束や裁縫をする係の女性に言われたそうです。
 彼女は歌を詠まずに
「雪月花の時」と白楽天の漢詩の事を申し上げたので、その機転の利かせ方に、天皇はたいそう喜ばれたとか。
 (この人はまた、火桶に煙が上がっているのを、天皇と二人きりで見て歌を詠んだというので、すごくお気に入りの人だったみたいね)

 180
 したり顔なるもの
 正月一日に初めてくしゃみをした人。これは、くしゃみをすると縁起が悪いといわれるが、直後に「休息万病(くそくまんびょう)」という呪文を唱えると、幸いに変わるというので。
 殿上に上がれる蔵人に子どもがなった人。(出世のチャンス到来!)
 正月の所領の発表に、その年の一番の国の受領になった人。「良かったですね」と言われれば「いえいえ、荒廃した場所ですので、収入もないでしょう」などと言いながらも、得意満面である。
 また、結婚の申し入れが多い姫の所に、晴れて婿となった人は、やっぱり自分は選ばれた人間だと思うでしょう。
 地方公務員だった受領の人が、国家公務員の参議なんかになった場合などは、もともとその身分を約束されていた、大臣家の息子たちがなった場合よりも、得意顔で威張り、えらく尊大に見えちゃいますう!

☆という清少納言さんの傍目八目でした。
 最後の2行は,決して現代のことではございませんので、悪しからず。

2009年11月28日
 信じられな~い、うぶな清少納言の姿です。
第179段

 初めて宮中におつとめに上がった頃のことでございます。(天地人の宮本信子調)
(993年の冬。この頃、清少納言28歳、定子17歳、定子の父道隆41歳、兄伊周20歳。995年12月に道隆が亡くなる前の、道隆さま一族が栄華を極めた頃のことでございます。)

 あまりに恥ずかしいので、私は泣きたいほどで、昼間のお勤めは避けて夜の当番にしていただき、それも、陰に隠れておりますと、馴れさせようと思われて定子さまが絵などを取り出されてお見せくださるのを、あまりの恥ずかしさに手を出すこともできません。宮は「それはそうなのですよ、こうなのですよ」と説明して下さるのですが、低い灯火のそばでは、昼間よりも明るく見えて、まぶしいほどの恥ずかしさです。
 とても冷たい季節なので、定子さまのみ手が、つややかなうす紅梅色をしていらっしゃって、初めて高貴な人を見た田舎者の心には、このような人が実際においでなのだと驚くばかりです。

 明るくなると恥ずかしいので、急いで帰ります。私は少しでも姿を見られまいと、体を伏したまま、御格子も閉ざしたままでいますと、女官たちが参りまして、「この掛けがねをどうぞお開けください」などと言うのを,宮がお聞きになって、「明けてはだめよ」とおっしゃいます。

 宮は「あなたは早く帰りたいのでしょう?それならば早く帰って、夜になったら早くまたいらっしゃい」と言われます。伏していざって隠れて帰ろうとしますと、宮のいらっしゃる「登花殿」の前には、雪がとても風情あるように降っているのでした。
 お昼になると、宮からお使いが来て「今日はお昼からいらっしゃい。雪で曇っているので姿はよく見えないと思います」と、たびたびお召しになるので、私のお部屋のお局さまが、「見苦しい!そんなに閉じこもっていていいものか。新参者なのに目をかけていただくのは有り難い事。」せかしますので、心苦しいままにもお前に参上いたしました。
 火を焚く小屋のすすけた屋根にも雪が降り積もっているのが、とても素敵だったのでした。

 宮のお前近くには,部屋を暖めるための炭櫃に火がおこされ、お前にはお世話をする女房達がいるのでした。その人達は、次の間にいる人も含めて、とてももの馴れているのが、新参者にはとてもうらやましく見えました。
 お文を取り次いだり、立ち居やおしゃべりして笑う姿など少しも恥ずかしがっていないので、いつになったら自分もあのようになれるのかしらと思うのさえ心もとないのです。
 
 少し過ぎて、お知らせの声があがり、女房達が「殿がおいでになります」と散らかったものを片付けますので、私はなんとか部屋に帰りたいと思うものの、思うように動けず、奥の方に隠れて隙間からのぞいておりました。

 おいでになったのは、道隆さまではなく、兄の伊周さまでした。装束の紫の色が、雪に映えてとても美しいのでした。柱のそばにお凭れになって「今日は物忌みで来れない日なのだが、雪を押してご訪問いたしました」とおっしゃり、宮が拾遺集の平兼盛のうた
*山里は雪降り積みて道もなし今日来む人をあはれとも見む
 を引いて
「道もなしとおもひつるに、いかで」とおっしゃり、伊周さまが
「あはれともやご覧ずるとて」
 などとお答えになる御ありさまなど、美しい中宮と兄上の、歌を用いてのやりとりの素晴らしさ!決して物語の中ではない、現実の様子に、夢見心地の私なのでした。
 伊周さまが何かおっしゃるのに、全然恥ずかしげもなく答え、笑ったり、あまつさえ反論したりする女房達の姿に
見ていて恥ずかしくなるうぶな私なのでした。

 そのうちに、隠れている私に気づいて、伊周さまが「そこにいるのは誰か」と言われ、女房たちにあおりたてられて伊周さまが近くにおいでになります。
 まだ、宮のお前に上がる前に、行幸の折りなどにお供をする伊周さまを遠くから拝見したのに、こんなに近くに来られては、と、緊張のあまり、身の程も知らずになぜ宮仕えなどしてしまったのだろうと、後悔で冷や汗が出る思いです。ドギマギして、お答えもできません。
 伊周さまは、私の扇を取って「この絵は誰が描かせたのか?」などおっしゃり、すぐに返して下さらない。気がつけば、うつぶした袖に白いものがついていて、きっと、白粉がはげてまだらな顔になっていることかと思えば、余計顔もあげられません。

 伊周さまが長い事私のそばにいらっしゃるので、そんな私をかわいそうに思われたのでしょう。定子さまが
「これを見て。どなたの筆跡でしょう」と伊周さまに話しかけられます。
「ここに来てご覧下さい」と言われるのに、伊周さまは
「そちらに行きたいのですが、私を放さない人がここにいるので」などふざけておっしゃるのも、今どきの若者ふうなのでした。
 そして、どなたかの草仮名を書いた草紙を手に取ってご覧になり
「どなたの筆か、清少納言にお見せなさい。あの者はあらゆる人の筆跡を知っているはずですから」などと、どうしても私に答えさせようと、とんでもないことばかりおっしゃるのでした。
 
☆という段の中ほどまで。
 すでにその才を認められていた清少納言が、定子の家庭教師的な役割として、宮中に上がったものらしいそうです。それにしても、昼は恥ずかしいので、夜しかお勤めに出ないなんていうのは、その後の明かるくはつらつな清少納言の言動を読んだあとには、信じられない光景であります。
 17歳の定子中宮の思いやりの心も素晴らしいですね。その後、中宮が亡くなった時の一条天皇の挽歌などは、涙なくして読めません。

 


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